澄んだ気持ちのいい音が響き渡る。
台の上の球を見つめて盛大に顔を引き攣らせながら、私は数時間前の自分の浅墓な言動を心から悔やんだ。
「なんでビリヤード勝負なんて挑んじゃったかなあ…」
それを聞き咎めると、ゲドーはキューの先端にチョークを塗りつけながらニヤニヤと笑った。
この笑みは覚えがある。自分の前評判を知らずにリングに上がった間抜けな対戦者に向けるものだ。たまに目にするが、いつ見ても腹が立つ。ましてそれが過たず自分に向けられているときてはまた格別に殴りたくなる。殴れるはずもないが。
ううう畜生。こないだ日本人に本業で綺麗さっぱり負けたくせに。
「まさかお前がこうまで弱いとは思わなかったな」
いや。せめて言い訳をさせてほしい。普通にやっていた時はそれほどとは思わなかったのだ。ごく平凡な腕に見えたものだから…だから、この様子ならばいい勝負ができるんじゃないかな、とうっかり調子に乗った間抜けな対戦者すなわち私は、この男の性分も通り名もきれいに忘れて提示してしまったのだ。
…賭け試合を。
そこから先は忌まわしくて思い出したくもない。
ただ言えることは、マルコム・ゲドーはミスショットが少ないばかりか言葉巧みにこちらの動揺を誘い足を掬ってくる、恐ろしく性質の悪いプレイヤーだというぐらいだ。ボクサーを引退してもこっちで食っていけるんじゃないかと本気で思う。
そもそも相手は上手く実力を隠して負けるなどという器用な真似をやってのける、八百長試合の常習犯じゃないか。そういった基本的なことに気付いたのはゲームも終盤に入ったあたり…要するに取り返しがつかなくなってからだった。まさか金を賭けさせるつもりで序盤手を抜いたなどとは…
たぶんないとは、思うけれど、この守銭奴に関しては自信を持ってノーと言い切れないのが情けないところだ。あれ、私恋人だったはずだけどな。確か。
「知らないのか? フィリピンじゃあビリヤードは『貧者のゲーム』って言われててな…そうだな、スラムならそこらへんのガキでもお前よりいい腕をしてるだろうよ」
「そうなの!? 初、耳…」
…まさか!
「お察しの通り。俺も腕自慢で、昔はよく何も知らない外人の旅行者から有り金巻き上げてやったもんだ。懐かしいな、まさかこの年になって同じことやるとは思ってなかったぜ」
道理でフォームがやたら様になっていたわけだ。
「お、おかしいと思った…初めに言ってさえくれれば! いや、そりゃそうだ。そんなこと言うはずないか…」
「思った時点で確かめておくもんだ。…で、どうする? ずいぶん負けが嵩んだがまだやるか?」
「やれる金があっても勝てる技量がないんなら同じこと、いや、むしろ一層ひどくなるじゃない」
「少しは利口になったじゃねえか」
「ううううるさいっ! 持ってけドロボー!」
ドロボーと言うかなんと言うか。ぺすりとテーブルに叩きつけた財布を拾って嬉々として中身を覗き込んでいるような奴には、魔術師どころか詐欺師が相応しいような気もするのだが…あながち間違っていまい。
「…これだけか…」
「悪かったわね。給料日前よ今!」
あからさまにガッカリするな! 傷つくから!
「なら仕方ない」
「…へ?」
気のせいだろうか。
今この男が死んでも言いそうにない台詞が聞こえた気がしたのだけれど。
「ないならないで、とりあえず端数だけもらっておくか」
財布から幾許かの紙幣を取り出すゲドーを見ながら、しかし私はどうにも嫌な予感が拭い切れずにいた。いや、なんというかこう、疑り深いと言うなかれ。この守銭奴はそうそう簡単に金を諦めやしないということは私もよくよく知っている。
「何企んでるのよ」
「失礼な奴だな、誰が何を企んでるってんだ。ただ…まあ、こういう場合の常套句といえば、だ」
それからゲドーは唐突に私の腕を引いて耳元に口を寄せると、
「帰ってから身体で払ってもらう、ってとこだろうな?」
それはもう甘いハイバリトンで、思わず目の丸くなるようなことを吹き込んだ。
「な、なによその使い古された口説き文句は!」
「俺は別にどっちでもいいんだが、お前はどうだ? 今ここで財布の中身が根こそぎ空になるのとどっちがいい?」
惚れた弱み、とはこういうことを言うのだろうか。
逆らえるはずがないじゃないか。